”多摩川暴れる!”ソーマ研究員の報告


 当社の社屋を出て少し南に歩けば、多摩川の河原に出ます。 この場所に社屋ができてから40年が経とうとしていますが、 その間多摩川もずっとそこにありました。両岸を立派な堤防に覆われているので、 おそらくこれからもここを流れ続けることになると思われます。

 ところが、十年一日のごとく同じ場所を流れ続けてきたように思えるこの多摩川も、 昔はまったく違う場所を流れていたことがあったのです。 ここ府中市の四谷付近では、現在よりもはるか北側を流れていました。 その頃このあたりは多摩川の南岸だったことになります。 江戸時代のはじめ頃までのことだそうです。
 しかし幾度かの洪水を経たことにより次第に流路を南へ移し、 1600年代の中頃には現在の位置に近いところまで移動してきたようです。

 古い流路のあった付近は、今では住宅などが立ち並び、 かつてそこを川が流れていたことなど想像し難い感じになっていますが、 地図の上からであれば今でもその痕跡を確認できるようです。

 (図1)は、 地形図を参考にこの付近の地形を簡単に表してみたものです。 府中崖線と呼ばれる段丘壁の下から現在の多摩川までの間にある低地部分に 等高線が何本か入っていることを確認できると思います。 等高線が標高の高いほうへ張り出している部分は、 周囲より低く谷状に窪んでいることを表します。

 (図1)の 低地部分を横切る等高線にも、 そのような谷状の部分を幾つか見つけることができます。 低地なので深い谷は有りませんが、 周囲よりも比較的大きく張り出している部分を 各等高線から一箇所ずつ選び、その点を結んでみます。 すると、緩傾斜地で等高線間隔が広いので 多少大雑把にはなりますが、谷筋が浮かび上がります。 その線の両端を現在の多摩川に当たるまで延ばせば、 それが旧流路を表す仮想線になります (図2)。 細かい蛇行の様子まではわかりませんが、おおよその位置はつかめると思います。 昔の多摩川は、ハケ下(このあたりでは段丘壁のことを俗にハケと呼んでいる)の すぐ近くを流れていたことがわかりました。

 現在ではその旧流路に沿うようにして、府中用水と新田川が流れています。 これは多摩川が南へ移動した後に、旧流路の川床を利用し 農業用水路が整備されたことを意味します。

 また流路の変遷は地名に反映することもあったようです。

 駅名になっている分倍河原という地名があります。 しかし多摩川ははるか南を流れており付近に河原らしい場所は見当たりません。 ところが旧流路との位置関係で見れば、駅の西側に当たる分梅の集落 (駅と集落では表記が異なる)が、ちょうど川沿いになっていたことがわかるのです。

 中河原(中河原駅の北側一帯)という地名についても、 北は多摩川、南に浅川で二本の川に挟まれた河原であったことによるとの説があります。

 四谷の地名も流路変遷と関係があるかもしれません。 旧流路を流れていた多摩川が氾濫したときに、流失した集落がありました。 そこの住人だったうちの4軒が氾濫の収まった後もとの地に戻りました。 そこに再興した集落が四屋と呼ばれるようになり、それが後に四谷に変わったのだそうです。

 洪水では神社も流されました。 中河原駅の北、中央自動車道のすぐ南に小野神社という小さな社があります。 小さくてもとても由緒があり、式内社(国幣小社)でしかも武蔵国一之宮なのです。 ただし当然といえば当然ですが、 有名な三之宮の大宮氷川神社(官幣大社)や五之宮の金鑚神社(国幣大社)のほうが 延喜式の社格としては上になります。

 話が逸れましたが、その小野神社も小野宮の集落とともに洪水で流されています。 流された人々は、多摩川の新流路(元の浅川)の南側に移住し、 そこで神社も再建して集落名もそのものズバリの一の宮としました。 聖蹟桜ヶ丘駅の西北にある小野神社がそれです。
 しかしその後に川の流れが落ち着いたところで、 一部の住民は元の集落があった場所へ戻りました。 そしてそこでも小野神社が再建されることになります。 そのため式内社武蔵国一之宮を名乗る小野神社が二つ存在することになってしまい、 今に至っています。

 これらの事例からもわかるように、この界隈の歴史は、 ずいぶんと多摩川の流れに影響を受けてきました。 洪水で集落が丸ごと流されたりもしましたが、 反面、武蔵野では数少ない水田耕作地としての土壌を作り出してくれたのも多摩川の氾濫でした。 そのことを思えば堤防の内側でおとなしく流れている現在の多摩川は、 なんとなく窮屈そうに見えてしまいます。
とはいっても今暴れられたら困りますが・・・。


以上



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