”府中御殿”についてソーマ研究員の報告


 かつてこの府中には、多摩川を見下ろす高台の上に府中御殿と呼ばれる立派な御殿が存在した。 築造されたのは1590年、豊臣秀吉の命により関東に移封されたばかりの徳川家康の手によるものである。

 御殿は主に江戸時代の前半、江戸の周辺各地に多く造られ、 鷹狩などの際に休憩施設として利用された。しかしごく初期に造られた幾つかの御殿は、 それらの鷹狩御殿とは多少趣が異なっていたと考えられている。

 関八州を領有することになった家康は、武蔵と相模の大半を自らの直轄領とし直属の家臣を配置した。 これには江戸の近郊に有力家臣を置かないことで、 お膝元での寝返りによる大規模な軍事蜂起が起こりにくくする狙いがあった。

 しかしその反面、有力家臣を北関東方面に集中配置したことにより、 江戸の防備は南西方面が手薄になってしまった。 そこで家康は、甲州方面からの守りには八王子に千人同心を配置し、 東海方面からの守りとしては平塚に中原御殿を置く。 さらにその後方では、甲州街道と鎌倉街道が交わる点に府中御殿を、 中原街道が多摩川を渡る点には小杉御殿を置いてこの方面の守りを固めた(図1)

 当時はまだ東海道で直接江戸に入るルートが整備されていなかったので、 平塚の中原から中原街道を通り江戸に入るのが一般的であり、このような御殿の配置になったと思われる (小杉御殿の在った川崎市中原区の地名は、中原街道の通過点であることに由来している)。

 江戸を防衛するのに街道筋を点で抑えるだけでは一見頼りなく思える。 しかし大規模な軍隊の移動には、整備された街道を使うしか方法が無かったこの時代においては、 これが非常に有効な防衛体制であった。

 さらに府中御殿については、江戸への玄関口であるばかりでなく、 西国から奥州方面へぬける際の中継地でもあり、その点においても戦略的要衝と位置付けられていた。 1590年に豊臣秀吉が奥州遠征をした際も、その帰途に府中を通っている。 御殿はそれに間に合うように築造され、家康は府中へ出向き秀吉を饗応した。

 その後秀吉は倒れ、家康は関が原を経て征夷大将軍となり幕府を開く。 それからの御殿は、将軍の鷹狩や鮎漁の際に休憩施設として頻繁に利用されることになる。

 しかし当時の鷹狩は、単なるレクリエーションではなく、 家臣たちの軍事訓練や領地視察といった意味合いを強く持ち合わせていた。 幕府の支配体制を固める上で欠くことのできない行事であり、 その際に利用される御殿もまた重要な施設と考えられていた。

 それに加え、まだ依然として戦乱の再発を懸念する雰囲気も強く残っていた。 豊臣方の勢力が再結集して立ち上がる可能性は捨てきれず、さらに都の朝廷についても幕府は強く意識していた。 朝廷の与える征夷大将軍という官職に基づいて開かれている幕府は、将軍が国政の実権を握っていながら、 実は朝廷を敵に回すとそれだけで自分たちの存在に対する後ろ盾を失ってしまう矛盾を抱えていたのだ。 そのため防衛拠点としての面においても、御殿の存在は依然として重要であった。

 その後豊臣方の残存勢力については、1615年の大阪夏の陣で壊滅に追い込み、 幕府は豊臣の血を引くものを根絶やしにする。これにより心配の一端は取り除くことが出来た。 しかし一方の錦の御旗に対する恐怖については、その後も幕府を悩ませ続けることになる。 江戸時代を通して多摩川に一本の橋も掛けなかったことに、幕府の西国に対する警戒心を見て取れよう。

 そのような状況の中で、家康は1606年に将軍職を二代目秀忠に譲り駿府へ退いている。 しかし大御所として幕政に対しては依然強い影響力を留めていた。 そのため江戸に出向くことも多かったが、その際表向きは鷹狩と称し、 江戸城へは入らずにもっぱら府中をはじめとする御殿を利用していたようだ。 そこでは将軍秀忠をはじめとする幕府の主要メンバーとの間で政策協議がしばしば行われていた。

 このように初期の幕藩体制確立期には重要な役割を担っていた御殿であったが、 三代将軍家光の頃になると利用される機会はめっきり少なくなる。 東海道の整備が完了し、海沿いをまっすぐ江戸へ入ることが出来るようになったため、 内陸側の街道は利用される機会が少なくなったのだ。それに加えこの頃には社会も安定し、 江戸が攻撃を受けるような心配もほとんど無くなっていた。 江戸防衛のための戦略拠点という意味においては、御殿の存在意義が薄れつつあった。

 そのため府中御殿は、寛永年間に火災にあった際一度は再建されたものの、 1646年の府中大火で全焼した後は、ふたたび再建されることは無かった。

 小杉御殿と中原御殿も府中御殿と同様の運命をたどっている。

 まず1657年に中原御殿が解体され、資材は明暦の大火で消失した江戸城の修築に充てられた。 それに続くようにして1660年には、小杉御殿も廃止されている。 その後廃止された御殿に変わるようにして、井の頭などの各地に造られる御殿は、 純然たる鷹狩御殿としての色合いを強めていく。 太平の世を迎え、かつて江戸の町を守る為に存在した御殿のことなど、人々の記憶からは忘れ去られていった。

 しかし長く続いた徳川の世も、やがて終焉の時を迎えることになる。 薩摩や長州をはじめとする西国の幾つかの藩が、尊皇攘夷を掲げて幕府打倒に立ち上がったのだ。 討幕軍は朝廷と結ぶことにより錦の御旗を手に入れる。 そして官軍の名の下に幕府軍と対峙することになった。

 成り行きで賊軍にされてしまった幕府側にはなすすべも無く、 大政奉還そして江戸城無血開城へと歩むしか道は無かった。

 結局幕府は、その開設当初から恐れていた錦の御旗によって倒され、その幕を閉じることとなる。 しかしそれは律令体制下における幕府統治という特殊な政治形態が、 いつかは迎えなければならない運命でもあった。

 話を御殿に戻そう。 府中御殿は火災で焼け落ちてから後、しばらくは空き地のまま放置されていたようだが、 その後は地元農民の手によって、畑として利用されたらしい。

 畑になってから後の御殿跡地が、どのような変遷をたどったのかはよくわからないが、 時代が下って私が高校に通っていた頃、通りがかりに見る御殿跡の景色は、 たしか製粉会社か何かの工場としてのものであった。 ただ当時はそこに御殿が在ったことなどは知らずに通り過ぎていた。

 しかしその工場も数年前に無くなったようで、いつの間にか道の向かいにある イトーヨーカドーの駐車場になってしまっている(図2)。休日などに買い物客で賑わう様子からは、 もはやそこがかつての御殿跡であることを偲ばせるものはほとんど見出せない。

この辺りに御殿があった。手前の道が御殿坂
御殿跡の駐車場は最近立体化された。手前右側がイトーヨーカドー
 それでも御殿跡の脇を競馬場方面へ下る坂の名前は御殿坂と呼ばれており、 わずかにその名残をとどめている。以前は御殿下という地名も存在したようだが、 新町名の施行により地図の上からは姿を消してしまったようだ。

 又、御殿跡から少し西へ行った先には、御猟場道と呼ばれる道があり、 この辺りが鷹場であったことを今に伝えている。

 府中周辺には、他にも三鷹市の市名や国分寺のお鷹の道、小平のたかの台など鷹に関する地名が多い。 それらは皆当時の鷹場にちなむもので、この辺りには将軍家以外に御三家筆頭である尾張家などの鷹場もあり、 そのため広い範囲に地名が残されることになったようだ。

 小杉と中原の御殿跡はその後どうなったのだろうか。 地図を見ると小杉には小杉御殿町や小杉陣屋町、中原にも御殿という地名が残されている。 しかしどちらも地図上では、御殿の遺構らしいものを見つけることは出来なかった。 いちど現地を訪ねてみたいと考えている。

 府中、小杉、中原、これらの御殿は江戸時代の初めに、戦略上重要な役割をもって築かれながら、 時代の急速な変化により比較的短期間のうちにその姿を消すことになる。 そういった意味で他の鷹狩御殿とはその性格を異にしていたといえるのである。

 家康の死をもって、江戸時代は最初の大きな節目を迎える。 その家康の棺が久能山から日光へ改葬される際、江戸城には寄らずに府中御殿へ入り、 そこで二泊し法要まで執り行っている。家康の府中御殿への思い入れに対する計らいがあったのであろう。 そして家康とともに初期の江戸時代を歩んできた府中御殿にとっても、それが最後の晴れ舞台となったのである。

以上



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