発展期(昭和後期から平成へ)
スクライブ手法の導入
Column④ 等高線スクライブの思い出
岩手から上京して東京地図研究社に入社したての頃は、毎日スクライブの練習に明け暮れていた。塚田会長は特に等高線への造詣が深いこともあって、尾根、谷を揃えることから徹底的に鍛えあげられたが、最初の頃は失敗や試行錯誤も多かった。
主に計曲線の描画に使用した固定スクライバーは、固定用の2本の足と、高さを調整できる針のついた足の合計3本の足で構成されていた。初めて固定スクライバーを使用した時、3本の足を水平に合わせて描き始めると膜面を滑るだけで削れないではないか。「なぜだろう、針先の磨ぎ方が悪いのか?」と思い、もう一度磨ぎ直して描いてみても同じ結果だ。悩んだあげく上司に相談すると「当たり前だ。膜面に食い込むように針の付いた足はベース膜面分長く設定するものだ」と教えられて、やっと描き始める事ができた。また、当初主曲線はペン型スクラバー(ペン先には蓄音機針がついていた)で描画していたが、ベース膜面に針が直角に当たらないことから時間がたつと描画線が埋まってしまったり、線の太細が出てしまうことがしばしば起こった。これを解消するには、ベ一ス膜面に針が直角に当たる固定スクライバーを使う事が効果的だった。ペン型を固定スクライバーに置きかえた時に、角度の小さな曲線を描く事に神経を使った事を思い出す。
時代とともに技術はデジタルへと変遷した。急激な変化の中で足元を見失いそうになることもあったが、そんな時自分を支えてくれたのは等高線スクライブで養った「やればできる」という自信だったように思う。(東京地図研究社40年史 T.S)
地形図から民間の主題図まで
Column⑤ 東京地図研究社での思い出
私が入社した昭和47年は公害問題が最も関心を集めた時代、銀塩類の下水道へのたれ流しが禁止され、写真定着液、現像液は業者によって回収される事になった年であった。同時に、約150年前から先人たちが開発し、利用されてきたアナログ工程がデジタル工程に移行する最終段階の時期でもあった。地形図作成のほか、ナショナルアトラス、土地利用図等色々な作業に携わってきたが、戦前から地図製作に従事した多くの先輩たちの苦労を熟知していた私にとって、世界の英知が結集されたアナログ工程の最後の技術に立ち合うことができた事が一番心に残っている。
退色防止蛍光灯のもと200ルクスの明るさで2時間までフィルムを晒しても支障がなく、暗い部屋に入って作業をしなければならない心のストレスを解放して作業能率を高めてくれた明室フィルム。製版用感光液重クロム酸塩が公害のためジアゾ化合物にとって代わり、さらに感光性樹脂へと発展し、アルカリ性溶液に不溶の感光性樹脂が露光によって可溶となる性質を利用し、赤く着色したアルカリ可溶のピール層と2重に重ねた感光材料を用い、くり線ネガを焼き付けてマスク版作成を容易にしたフォトマスキングフィルム。既成のスクライブポジを焼き付け、画線のゼラチンを除去し腐食を行って、スクライブの再製に使用したフォタクトスクライブベース。
これらは、長い歳月と人知を尽くして、日本の地図作成のために最後に使用したアナログ工程の感光材料として、終生忘れることのできないものである。(東京地図研究社40年史 S.N)
新社屋の完成
Column⑥ 創意と工夫の日々
スクライブ法は当時比較的新しい技術であったことから、今後まだ何かしらの工夫を生かす余地があるのではないかと常に考えていた。スクライブ法は削刻作業であり、線号が太くなればなるほど、形は細かくなればなるほど描画には苦労する。ある作業の中で、線号が図式通りだとどうしても効率が悪く、あまり苦労が報われないと感じたことがあった。何とか納得できる成果にしたいとの一心で、より良い方法を検討した。そしてサンプル図を作成してお客様に提案したところ、図式の変更が了承されて作業をスピードアップすることができた。
また、外国図で広範囲の粗空石積が出現した際、図式ではこれを一点鎖線で表現していたが、細かく区画された空石積の場合統一のとれない複雑な図になってしまう上、かなりの作業時間を要することが予想された。そこで石積の地上写真を参考に、ダブル網点を使って表現したサンプル図を作成して検討をお願いしたところ、大変現状にマッチしたシンボルとかえって喜んでいただいた。結果的にこのシンボルが採用され統一のとれた美麗な地形図となり、さらに作業の効率化にも役立つこととなった。こうしたことはもちろん作り手の立場だけの問題ではなく、意見や提案を受け入れて検討していただいたお客様の見識の高さによるところが大きく、大変感謝している。
こうしてスクライブを通して、そしてお客様に育てられて得ることができた自信と確信。日々の創意と工夫、そして前向きな提案。デジタル化が進んだ現在でも、この姿勢を忘れてはいけない。(東京地図研究社40年史 K.N)
社長交代と体制の強化
アナログからデジタルへの移行
Column⑦ VAXがやってきた
平成元年は、業務において「コンピュータでの地図」が産声を上げた年である。最初に導入したマシンは「VAX」である。その当時では、やや流行遅れのマシンだったが、搬入業者が玄関から運び入れ梱包を解いたその時、ピカピカのマシンの姿に「感動した」事を覚えている。本体が1台、MT装置1台(磁気テープにデータを記憶する装置で、今では博物館でしかお目にかかれまい)、デジボード付き端末が5台というかわいいシステム構成で、端末側には現在の「アイコン」のような便利なツールはなく、入力項目を書いた「メニュー表」と称した紙をボード張り付け、項目を選んで入力作業をしていた。ある女性オペレータの失敗談で、お店でウエイタ一に「メニュー表をください」と大きな声で言ってしまい、とても変な顔をされたと恥ずかしそうに話してくれたことを覚えている。
ハードディスクも今のPCと比べると子供のような容量しかなく、気を抜くとディスクがアッという間に一杯になってしまう、困ったマシンだった。磁気テープへのバックアップを取り、不要なデータを消去して新しいデータをインストールする、これを日課のように繰り返していた。(今から思えばのんきな作業をしていたものである)
PCベースの入カシステムが導入されるまで「VAX」は大きなトラブルもなく約6年の間、入力の第一線でガンバリ続けてくれた。扱いにくく動きも遅い「VAX」だったが、「データ」という訳も分からない代物を初めて教えてくれた忘れられないマシンとなった。(東京地図研究社40年史 S.O)
ラスタ編集でデジタル技術を習得
Column⑧ スクライブからラスタへ
地図のデジタル化の足音は察していたものの、いざ長くたずさわってきた国土地理院の地形図作業がスクライブからラスタ修正に代わってみると、「自分の仕事がなくなってしまうのでは」という焦りを感じたと同時に、「やるしかない」という覚悟を決めたことも覚えている。
始めてはみたものの、ワークステーション相手ではやはり苦戦は免れなかった。若い世代と違ってマウスを意のままに動かすこともままならず、UNIXのコマンドを教えられたとおりタイプするのも四苦八苦、やっとのことで何とか必要最低限のコマンドを覚えたものだ。しかし、修正用に貸与されたVRCという編集システム自体は、ある程度スクライブ作業を念頭に置いて開発されたため、編集メニューの構成や用語などがなじみやすい部分も多く、スクライバーとマウスの違いさえ克服できれば(若い人たちのように目にも止まらぬスピードでマウスを操ることは無理としても)何とかなるかなという手応えも感じていた。
デジタル化という言葉は誤って解釈すると、ともすれば図式をおざなりにしてしまう危険もあるが、当社ではスクライブ時代から地形図の編集にたずさわってきた技術者が引き続きラスタ修正を担当したことで、結果的に成果に高い評価を頂くことができた。
そのラスタ作業も平成13年度で終わりを迎え、地形図作業はベクタの時代へと足を踏み入れた。また悪戦苦闘しながら新たに勉強しなければならないことも多いと思うが、今までの経験を十分に応用して、今後も品質の高い成果を提供して信頼に応えたいと思っている。(東京地図研究社40年史 M.O)
塚田野野子が新社長に就任
Column⑨ 手法から思考へ
地図を描こうとした場合に、植生記号の配置や被覆の玉、ケバ足の間隔や角度など、図式の規定通り描いても不自然になったり、うまく表現できないことがある。アナログで地図を作っていた頃、それらの表現は作り手それぞれのバランス感覚で調整されて描かれており、作り手の個性を反映できる隙間が存在していた。そのため、地形図においてでさえ、よく見ると個々の図面が明確な個性を主張していた。
現在のデジタル手法による地図作りにおいては、ほとんどの場合それらの表現は均質化により排除されているように思う。しかし、このようないわば表層的な表現におけるアナログ的センスのようなものは、手法が変わった現在でも残していくべきものかもしれない。しかし、これからの地図作りでは、手法としてのみではなく、「1+1=2になるとは限らない」という思考法としてのアナログ的センスも新たに必要になっていくと考えている。例えば、歴史や風土など土地にまつわる知識、建築や土木をはじめ様々な分野の知識を幅広く持ち、多面的な視点で地図を作ることにより、ただ有るものを図式に当てはめて作った場合と比べ、地物の表現や注記の選択の方法は違ったものになってくるだろう。
すでに表現的な技術はほぼ確立されつつある。だからこそ今必要とされているのは、地霊を地図の表層に顕現させるようなセンス、そこにこそ地図を見る上、作る上での楽しさの核が存在する。見る側の想像力を喚起させることができる感性が求められている。(東京地図研究社40年史 K.S)
創業から40周年を迎えて —地図のプロフェッショナル—
Column⑩ 未来の記憶の中で
私が昭和60年に入社して早いもので17年の月日が経った。異なる業界で数年の経験の後、東京地図研究社で地図製図に関わった当初は、これぞ物づくりの現場の雰囲気そのもので、いろんな匂いがした。墨、写真処理に使う薬、ラッカー、ケトン等の材料の匂いだけでなく、道具を整える時に研磨する匂いも、脳裏のどこかに染みついている。不思議なもので身体で覚えたものは、いつの間にか記憶が薄れても、たちまちに蘇ってくるものだ。匂いではないが、脚で覚えたものには、1万分1地形図作業の現場作業がある。正に体力と地図の知識が必須の仕事と、暑い夏に街を歩きながら思ったものだ。
その後、私はVAXやパソコンでのデータ作成に携わり、アナログ地図とデジタルデータの違いと共通点を身体で感じる毎日となった。現在、私は営業面を統括しているが、理想としていることは、お客様に東京地図の技術や作品を無意識の意識の中に記憶してもらい、未来の記憶の中で東京地図を思い出してもらうことである。デジタルデータは均質化され味がないと一見思われがちだが、価値の付加、加工、表現、分析等、利用法により地図データの可能性は無限大である。我々は地図屋ならではのセンスを基に地図データにいろんな味付けや隠し味、また隠し包丁を入れて、お客様の記憶に残る作品を作っていきたいと考えている。(東京地図研究社40年史 G.T)