21世紀 ―事業の「礎」を築く―(設立60周年記念)|東京地図研究社|地理空間情報で未来社会を切り拓く

激動60年の軌跡HISTORY

21世紀 ―事業の「礎」を築く―

ホームページの公開とリニューアル

 当社が最初にホームページ(以下、HP)を公開したのは2001年頃である。そのほとんどは地理や地図好きの社員が書いたコラム(ちずらぼ)やエッセイで構成され、会社自体の紹介や宣伝は隠れた存在だった。素朴で手作り感満載の雰囲気が会社のテイストそのものであったが、Web全盛時代を迎えた最中では時代遅れ感を隠せず、2005年夏からHPの改変作業を始めた。
フレーム構造のホームページ  旧来のサイトマップを維持し、HTMLコードもほぼ手打ちで作成したため、フレームタグによるレガシーな構成はそのままでコンテンツのみを書き換えた状態ではあったが、必要最小限の会社情報は盛り込むことができた。その後、SEO対策を施したことにより、GIS製品販売ではGoogle検索で常にトップ5に入るようになり、新卒採用募集や出展案内など頻繁に書き換えを行うことでヒット率も大いに向上した。Googleマップや電子国土Webシステム(現:地理院地図)の案内図を組み込むなど、曲がりなりにも動的なページも用意した。在籍するデザイナーが作るトップページのバナー画像は毎月更新し、ブログと連動させることで更新情報一覧も整備した。
 しかしながらフレーム構造による弊害は顕著で、社内外からも全面改変すべきとの意見が増え始めた。また、タブレット端末でのアクセスが圧倒的に増加したことを受け、2018年3月、まずリクルート(採用)サイトの分離独立を皮切りに、2020年末から本体の完全リニューアル作業を行うこととなった。
 専門の開発業者の力を借りた作業期間中はWebコーディングという慣れない分野における格闘状態となり、企画開発グループの全スタッフを巻き込んで侃々諤々の議論が日夜続いた。約3ヶ月の作業期間を経て完成した新HPは、CSSとJSで制御され、スマホ最適化処理も施されたモダンタイプとなり、完全リニューアル版として2021年3月に公開された。今では、眠らない「営業マン」として24時間休まず当社の存在を広めてくれている実に頼もしい存在となっている。

ArcInfo導入の決断

 塚田野野子社長が大手航測会社出身の石川剛と初めて出会ったのは2002年末の展示会会場だった。地図や測量業界のなかで女性社長は珍しく、石川は「東京地図」という会社名から地図帳の関連会社?と勘違いしたまま記憶していた。それから3年ほど経った2005年初頭、塚田社長が石川に声をかけ、個人事業主としてGIS処理作業や社内IT環境の見直しを手伝うようになり、7月からは社内にデスクを設置し、ほぼ専属として業務を請け負うようになった。
ArcInfo  この時代の社内のICT環境はまだ未整備で、PC用のGISのライセンスを数本使い回している状況だったため、まずは「武器」を導入しようと、当時最強のGIS環境であった「ArcInfo(旧ARC/INFO)」、およびエクステンション製品の3DAnalystとSpatialAnalystの調達に向けて動いた。とはいえ定価ベースで数百万円という投資は当社にとってまさに“清水の舞台から飛び降りる”ような決断だった。そこで、総販売代理店であるESRIジャパン株式会社と交渉を重ね、販売代理店として契約することでなんとかArcInfoの導入にこぎ着けた。
 ちょうどアナログがデジタルに置き換わり、「地図調製」から「空間情報処理」へと業務の主軸が移行しつつあった最中、当社のGIS環境は一気に高度化し、それまで対応できなかった様々なGIS処理業務を請け負える体制が整い始めた。
 また、販売代理店としてEsri製品の拡販に努め、ArcGISシリーズの導入サポートや付随するデータコンテンツ整備を始めたことで、地図調製業から空間情報整備へと事業の柱が大きく変わり始めていった。その後、社内におけるArcGISやその他のGISに関する知見、スキルが蓄積され、現在はほぼすべての業務がGIS関連と言っても過言ではなくなっている。

府中本社のリノベーションと環境整備

 2005年当時、アナログ作業からの過渡期であった社内の執務室は、そこら彼処に散らばるダンボールや図面、剥き出しのケーブル、好き勝手に場所を決めて自席を確保するスタッフなど、倉庫のような雑然とした状態であった。トイレからは微妙に異臭が漏れ、デスクを水拭きしても数秒後にはホコリが溜まってきてしまうほど。それでも一応は作業場として機能していたが、「昭和臭漂う状態をいつまでも放置できない」と、2008年頃から数名の社員がオフィス改善を始めた。
 手始めに行ったのが壊れかけたチェアの入れ替え、手作りのゴミ箱をプラ製へ、LANケーブルや電話線の配線し直し等々である。地図屋らしく室内をコンベックスで計測し、Illustratorを駆使して社内レイアウト図も作成した。この図はその後の基盤データとなり、何度もアップデートされながら現在(2022年)も利用中である。2009年末、大掃除で最初のレイアウト改造を実施、1人1人のデスクを固定した。同時期に一部和式だったトイレを洋式化し、多くのスタッフに喜ばれた。
府中本社のリノベーション  2012年初頭、室内の大改造プランの構想を開始。全ての什器を屋外に運び出し、床を全面タイルカーペット化、オフィスデスクも導入、パーティションも設置して3つの会議室スペースを作るという大掛かりな工事である。度重なる業者との交渉の末、9月の3連休をフルに使って一気呵成に作業を決行。翌週、見違えるようにきれいになったオフィスに、出社したスタッフがみな驚嘆していた。
 その後も、年3回の大掃除を定期的に行うことで各所のリペアや模様替えを逐次進めていき、トイレも完全リフォーム。不評だった異臭問題もようやく解決できた。この間、2016年には外装の全面補修も行い、豪雨のたびに悩まされていた雨漏りも解決した。2019年には最後まで残っていた2Fの役員室と応接室の改装工事を完了。こうして、足掛け10年に渡る府中本社オフィス改善プロジェクトはここに一応の完成を見たのである。
 その後は「環境整備」と銘打った小規模なレイアウト変更や定期的な席替え、什器の更新を繰り返すことで、スタッフ自身の整理整頓に対する意識は大きく向上、整然なオフィスが維持できるようになった。とはいえ、改善にゴールはない。時代が平成から令和に変わっても、スタッフにとって快適な環境を維持するための努力は続いている。

都心にサテライトオフィス(飯田橋支所)を開設

 2011年初頭、位置座標と紐付く大量の個人情報を整備する業務の打診を受けた。しかし、当時は個人情報保護や情報セキュリティという概念が浸透しておらず、社内環境の対策も十分ではなかったため、新たな作業場所を作る検討を始めた。
開設時の飯田橋支所  ちょうどその頃、都心へのアクセスを考慮したサテライトを設ける構想もあり、飯田橋にあるシステム開発系ベンチャーの協力会社から室内の分割併用について打診を受けていたため、同社事務所へ相談に伺った。同社社長との話し合う中で、同ビル内で入居者を募集しているとの情報を得て(散り散りに破かれゴミ箱に捨てられていたチラシをセロテープで復元し)調べたところ、34平米のワンルームで、我々のニーズにぴったりの物件だった。その場で不動産屋と連絡を取り、数日後には入居の手続きを進め、3月8日にはめでたく契約と相成った。縁あって同じビルとなり、その挨拶を兼ねて当社役員2名が協力会社の事務所へ訪問したのが3月11日の14時頃。まさに談笑の最中、突然の大きな揺れに見舞われ、2人ともいわゆる「帰宅困難者」となってしまう。この経験がBCP策定(後述)の原動力となっていく。
 さて、大震災の混乱の中、4月初旬の開設を目標に諸々の準備を始めた。インフラ・什器・人員等、あらゆる面で難儀しつつ、何とか最低限の環境を整え「飯田橋支所」は稼働し始めた。冷蔵庫や掃除機、食器といった生活用品は関係者からの寄付で揃え、作業者も身内のコネで何とか集めるような状況であり、今思えばずいぶん手作り感の強い事務所であった。
 しばらくは常駐社員が1〜2名、臨時スタッフが数名といった状態で四苦八苦、十苦、百苦でやり繰りしながら、当初の高セキュリティ業務も何とか軌道に乗せ、それ以外の業務も徐々にまわせるようになっていった。また、個人情報などセキュリティ確保や、主婦でも働きやすい労働シフト制、定例清掃のローテーション制、無線LANの導入とノートPCへの統一、NASサーバーでのデータ集中管理など、府中本社に先行して新しい取り組みをパイロット的に実証する場として支所の果たした役割は大きく、その実績は府中本社にも逐次導入されていった。
現在の飯田橋支所  開設から5年が経過した2016年頃には、常駐社員、臨時スタッフの人数も増え、明らかに部屋は手狭となっていた。このため移転を目指し、飯田橋界隈を中心に不動産屋を巡った結果、同じビル内により広い部屋を見つけて、2017年2月に支所の転居を行った。最初の支所開設時と同様、極力自分たちで移転作業を行ったため、レイアウトの設計、新たな什器やインフラの選定、運び出しから運び入れまで、初回と同じく手作り感のある移転となった。
 いきなり震災の煽りを受けた開設当初のドタバタから、ここまで来れたという実績に大きな感慨を持つとともに、かかった経費や今後の維持を考えると、新たな責任と意欲が湧き出してきたのまた事実である。移転直後は非常に広く感じた室内も、次第に手狭に思える時もでてきて、慣れというのは怖いものと実感している。昨今は当社でもテレワークが常態化してきたが、一方でオフィスの価値も高まってきている。会社で重要なのはまずは人材だが、ここまでを振り返ると、場所が人を作り、組織の風土を醸成するものと強く感じる次第である。

全社員で定めた経営方針と行動指針

経営理念  現在の経営理念と行動指針は、東京地図研究社が創業以来はじめて打ち出したもので、2014年4月に制定された。
 当社では2008年から各所に“地図に未来を、未来を地図に”というコピーを掲げていたが、あくまでキャッチフレーズ的なものであった。社会でどのような役割を担うのか、こうありたいと思う方向性、そもそも我々はなにものなのか…? こうした問いに対し明確に答えるべく、会社全体で具体的な「ビジョン」を策定しようと、2013年4月に企画開発室を事務局として経営ビジョン策定プロジェクトチームが発足した。
 プロジェクトチームはまず社員全員への7つの質問をアンケート形式で実施。ボトムアップで会社の魅力、強味、アイデンティティなどの共通認識を洗い出した。集められた回答を基に、今度は経営陣でいくつかの案に絞り込み、2014年4月の最終報告に至るまでの1年間、経営陣と社員が度重なる議論を繰り返して、皆の思いを込めた「標語」を煮詰めていった。このようにボトムアップとトップダウンを組み合わせ、策定までのプロセスを全員で共有することをプロジェクトチームは最重要視した。
 こうして、会社として目指すべき未来像と在り方を掲げた「経営理念」、それを実現するため日常から意識すべきことを8つの四字熟語としてまとめた「行動指針」が生み出されたのである。経営理念については、書道家である社員の御父様に縦書きと横書き両方で清書してもらい、額に入れて社長室と執務室に掲示している。また、毎週月曜日の朝礼において唱和を行い、社員全員が意識を1つにできるようにしている(2020年3月以降はコロナ禍により休止中)。
行動指針  一方の行動指針は、全スタッフが常日頃から心に刻み実践すべきものと位置付け、社内で着用するスタッフカードの裏面にも記載している。
 ただし、定めただけで実践が伴わなくては意味がないため、運用開始から1年後、具体的な行動に落とし込めるようPDCA方式で運用することとした。週毎の当番が行動指針に基づく具体的な行動を1つ宣言し、次週の朝礼で振り返りと改善点を共有するというローテーションを組んで、常に意識して業務に当たる仕組みを取り入れた。また、この行動指針をベースとして社員・アルバイトの考課基準が作成されており、当社の一員としての基本的な評価項目となっている。
 策定から4年が経過した2018年10月、行動指針と遵守のあり方について一旦総括ということで全社員にアンケートを実施したが、「継続しての運用すべき」との回答が大多数となった。現在も全員が行動指針を胸に掲げ、東京地図研究社の一員としての高い意識を持って日々の業務に取り組んでいる。

震災から生まれたBCPと災害対応力の強化

備蓄品  2011年3月11日午後、東北三陸沖で超巨大地震が発生。東日本大震災の始まりである。このとき塚田野野子社長と石川の役員2名は飯田橋支所開設準備のためハイタウン11Fで打ち合わせ中に激しい揺れに襲われた。食器や額縁が一斉に落下、本棚も次々と倒れ、室内は騒然となった。全公共交通機関がストップしたため、数時間かけ徒歩で移動することになり、都心での混乱ぶりを目の当たりにして、大地震に対する都市の脆弱性を強く認識する機会となった。一方、府中本社では多くのスタッフが通常業務に当たっていたものの什器等に被害はなく、都心と多摩地域で大きく差があることも特徴的であった。
 遡ること2年前の2009年の新型インフルエンザ大流行、そして今回の大震災を受け、社内でもBCP(事業継続計画)を作らねばならないという気運が強まった。折良く、東京都が推進する「東京都BCP策定支援事業」に応募したところ採択され、運営事務局のコンサルタント企業のサポートを受けながらBCP策定作業がスタートした。そこから足掛け3ヶ月間、社長以下複数名の幹部が週1回の協議を重ね、首都直下地震が発生した際でも事業を止めずに最低限の体制を維持するためシミュレーションを行いながら検討を重ねた。当社では受託業務が中心であったことから、事業所の一部が機能しなくなっても非常時は在宅勤務(テレワーク)によってある程度業務遂行が可能と判断、可能な範囲の出社とデータの分散化で2週間にて復旧できる目標を立て、プランの策定を進めた。このとき、同時進行で飯田橋支所の開設が進んでいたため、複数拠点による相互補完体制も可能であった。そこで保有データを相互にバックアップし合うことで冗長性を確保し、どちらか生き残った事務所をベースとして復旧を開始するオプションを用意した。また、府中本社側では大規模なレイアウト改造計画も進めており、各種什器の転倒防止、非常設備の総点検、可燃物の格納など各種災害対策も併せて盛り込んだ。数日間室内に留まらざるを得なくなったことも想定し、3日間分の糧食や保存水、災害用簡易トイレなどの備蓄品も確保した。
 さらに、緊急連絡網と緊急時連絡先情報の整備、自社社員開発の安否確認システムなども導入し、ハードだけでなくソフト対策も一気に整備。このようにして2012年3月末には「事業継続計画v1.0」を発行するに至った。震災をきっかけに当社の災害対応力は格段に向上したのである。その後、台風や豪雪などで出社がままならない状況が何度も起きているが、実務に支障をきたすような事態は一度も起こしていない。府中本社のデータサーバーに障害が発生した際も、飯田橋支所のバックアップサーバーにすぐスイッチさせて業務を止めることはなかった。
 ところで、当社BCPのなかで特徴的な点は「在宅勤務(テレワーク)」を骨格に据えたことにある。これには2009年に「総務省テレワーク実証実験」に参画し、その有効性を体感していたことも大きく作用した。当初はメールが主要な通信ツールだったが、その後VPN回線やクラウドシステムを導入し、社外でも社内と同等の作業環境が実現可能となった。この対策が2020年に発生した新型コロナウイルス感染症での対応に大いに役立ち、比較的スムーズにテレワーク主体の業務体制に移行できたことは、当時の方向性が間違っていなかったことの証左と考えている。

ISO資格の取得(PMSからISMS、QMSへ)

 2010年頃より、GISの業務が多数を占める中で同時にセキュリティ保持を要求される案件が徐々に増えつつあった。そこで、プライバシーマーク(個人情報保護マネジメントシステム;PMS)の取得に向けた調査を開始し、所管するJIPDECに出向き、何度かアドバイスを受けていた。そんな中、2010〜2012年にかけてPMS取得や維持を経験したスタッフが相次いで中途入社したこともあり、規定類の整備から始め、文書や記録の体系化を図り、社内教育も同時に進めた。通常は専門のコンサルタントの指導を仰ぎながら資格取得に向けて進めるのが一般的だが、当社の場合はすべて自社内で対応することとして、日常業務を終えた後、関係者で何度も協議を重ねて申請の準備を進めた。
 1年の準備期間を経て監査機関の審査に挑み、2013年には無事PMSの認証を取得することができた。その後は数回の更新審査を経て、社内での運用と意識徹底を定着させていった。
 一方で、当社の業務範囲が個人情報に留まらず、より高度で汎用的なセキュリティを要求させる業務がますます増加していった。このため、新たに情報セキュリティマネジメントシステム(ISMS[ISO27001])も必要であるとの結論に達し、資格取得へ向けて社内プロジェクトチームを編成した。すでに資格を取得していた知己の企業経営者からのアドバイス等を受け、そこから紹介してもらった専門のコンサルタント企業とも契約。PMSと同じように約1年に渡って隔週での対策会議を実施し、社内体制、文書、記録を整え、かつ社内教育を繰り返し行い、ついに2017年12月にISMSも取得するに至った。これにより、当社の情報セキュリティ能力とその維持における弛まぬ取り組みを社外へ提示できるようになり、併せて社内のPDCAサイクルの強化も一気に進んだ。2019年には、セキュリティマネジメントシステムの一本化を決定し、個人情報保護も包含する規定とすることでPMSとISMSを統合、PMS単独の運用は終了した。
セキュリティポリシーとクオリティポリシー  さらに、セキュリティとともにクオリティへの要求もいかにクリアにしていくことが課題となり、官公庁や自治体の入札業務の諸条件においてISOの保有が求められることも増してきていた。そこで、今度は品質マネジメントシステム(QMS[ISO9001])取得へも取り組みをスタートし、ISMSと同じように専門コンサルタント(個人)のサポートを得ながら半年で準備を終え、2019年にQMSの取得も達成した。ISMSより具体的方策を明文化しにくく、実務の傍らで膨大な書類と格闘することになった事務局の担当社員は心労が絶えなかったが、その分、認証を獲得した時の充実感もひとしおであった。
 このようにして取得したISO資格については、社内各所で方針を掲示し常にスタッフの意識徹底を維持するとともに、ホームページや名刺等にも記すことで、社会の一員としての責務と役割を果たす決意を示している。