黎明期(昭和中期から後期へ)
地図製図業創業
昭和33年3月。塚田建次郎は、居を構えていた東京都杉並区西荻窪で地図製図業を創業した。当時の業界は、民間測量会社の各部署(測量、製図、印刷等)の重要なポストに陸地測量部(以下、陸測)や地理調査所の出身者が就き、業界の発展の礎となっていた。こうした測量・地図調製会社は年間を通して平均した受注量があったわけでなく、年度末に膨大となる作業量に対し、社外の技術者や小さい事務所を柔軟に利用し、対応していた。
建次郎は陸測や地理調査所時代の仲間や先輩・後輩を通じ、測量会社数社の年度末の膨大な製図作業を個人外注として行うことを始めた。陸測の頃は曲線屋として主に水平曲線を描いていたが、見習いの頃から叩き込まれていた製図の基礎と地理調査所での経験は、すぐに成果として表れた。さらに、作業量をこなすために手伝ってくれる陸測時代の仲間たちがいろいろと協力してくれた。このように地図製図業を創業し船出に漕ぎ着けた背景には、建次郎自身が陸測時代から身に着けた製図技術と哲学、そして陸測・地理調査所時代の仲間や先輩・後輩たちのアドバイスや協力があった。
建次郎の製図技術・哲学や陸測時代の仲間という掛け替えのない宝物は、のちに東京地図研究社が会社組織として設立し、成長していった今日にいたるまでの根底にあるといえよう。
東京地図研究社を設立
創業して数カ月後の昭和33年初夏には測量会社からの製図作業が激減し、塚田建次郎は測量会社だけでなく出版関係の地図作製へと、顧客と作業範囲を広げていった。陸測時代の同僚が営んでいた出版社関係の地図作製会社の仕事を通じ、小学校の参考書用地図をはじめ、出版関係の日本や世界の地図製図や編集の実績を積んだ。
昭和34年4月、建次郎は黒田敏夫氏(約1年後の昭和35年に昭文社を創業)と出会った。黒田氏は、日本全国の都市地図を作製整備し出版・販売する会社を創業しようというバイタイリティーに溢れていた。そして、京都の市街図から東京に向かって地方都市の地図を作り始めていた。こうして、昭文社の地図作りの手伝いとして岐阜県の都市市街図の製図を行った。その後の愛知、静岡の各都市の地図製図を含め、昭和34年から36年の初め頃まで昭文社の黎明期の地図作製に寄与した。
昭和35年、建設省の「全国総合開発計画」に基づき、地理調査所から名称を改めた国土地理院より「国土基本図計画」が発表されたことで測量・地図業界は活気づき、測量会社からの大縮尺製図作業が急増した。建次郎は、作業場の体制をそれまでの自分1人から4名へと増やした。高校を卒業したばかりの男子1人と女子2人を雇用し、技術者として育成しながら作業量を拡大していった。そして製図経験者たちの協力を得ながら、外注作業、協力者の人数、作業量とも順調に増やしていった。昭和36年の夏には中央線の国分寺駅近くの借家に移り、作業場も拡げた。男子従業員は、昼間は小平にあった国土建設学院の測量科に通わせ、夜は作業場で9時頃まで皆一緒に働いた。さらに物件をまとめ上げるため週に数回は深夜まで働いた。建次郎の妻である正子も、雑務や従業員の面倒を見ながら夫とともに昼夜なく働いた。
陸測時代の仲間たちを通じ、関東の測量会社に加えて関西や東北からの製図業務も増えていったが、作業量も作業の幅にも対応できるようになっていた。建次郎は自分たちの地図調製業務を確立させるため会社組織を起こし、昭和37年3月、有限会社東京地図研究社が誕生することとなった。
東京地図研究社という社名
こうして、塚田建次郎を代表取締役とする有限会社東京地図研究社が設立された。資本金12万円、塚田建次郎・正子夫妻と社員3名という小さな所帯だったが、活気に満ちた毎日だった。社名の「東京地図」は、塚田社長が日本の首都であり中心である東京を本拠地として地図を作っていくという意気込みから付けられた。そして「研究社」という言葉は、塚田社長が陸測で曲線屋として地形のイメージやその特徴を的確に捉えて表現することを常に探求していたこと、そして技術の革新と時代の移り変わりに対応するだけでなく、未来に向かって地図の可能性の追求していくことを考えて、“日々之研究”の向上心を忘れないという決意が込められている。このようして「東京地図研究社」という社名ができた次第である。社名に込められた塚田建次郎社長の思いは脈々と受け継がれ、21世紀となった現在でも、地図情報の可能性について探求実践の日々が続いている。
社屋設立
Column① 生涯一技術者
私が塚田会長と出会ったのは中学時代で、時々私の家にあった蓄音機を聴きにこられ、音楽を通じて親交を深めたものでした。その後も共に地図の世界に身を投じ、戦争などで別々になったこともあったものの、長きにわたるおつき合いで現在に至っています。塚田会長が曲線屋であったのに対して私はいわゆる平面屋で、技術的な違いはあっても、お互いに「本気で地図とつき合ってきた」ことでは共通しており、だからこそここまでこの世界で共に歩んでこれたのだと思います。
「本気」とは本当の元気、健康から湧き出てくる気持ちだと思います。私は戦時中に中国で大病したこともあり、健康には人一倍気をつかったものです。多くの経営者が健康をトップとしての条件に挙げているように、企業を躍進させていく源は健康が生み出すパワーだと思います。そしてそのパワフルな個性こそが塚田会長の魅力です。
私は塚田会長のような経営者タイプではありませんでしたが、やはり地図への想いは深く、私なりの愛情表現として「生涯一技術者」という立場に自分なりの価値観を見いだしました。そして一技術者であり続けることは、常により高い技術を追求し続けることであり、その技術を若い世代に伝え続けることでもあったわけです。青山製図専門学校時代の教え子が現在この業界で頑張っている姿を見ると、少しばかり誇らしい気持ちになります。時代とともに地図作成の手法が変遷する中、彼らがどんな形であれより高い技術を追求し続けていくことが、私の「生涯一技術者」としての喜びでもあります。(東京地図研究社40年史 S.S)
墨製図技術は会社の基盤
昭和33年に塚田建次郎が地図製図業を創業してからの10年間、東京地図研究社は墨製図を主要な業務として発展していった。墨製図作業は陸測の時代から地図製図作業の最も基本であり、昭和40年代からスクライブ手法が一般的な製図手法として台頭してくるまで、ほぼ全ての地図製図に利用されていた。
東京地図研究社は、都市計画図・鉄道図・用途図・実測図・林相図・上下水道図等、いわば戦後の日本のインフラ整備に不可欠な地図作りや、出版社の都市図・分県図・日本全図・世界図等の製図作業を通じて、大縮尺から中縮尺、小縮尺のさまざまな墨製図作業の実績をこの10年間に積み重ねていた。これらの墨製図作業は、売上と実績の向上に貢献したとともに、会社が地図調整業者としてさらなる成長をするための技術の基盤を作った。
昭和43年からスクライブ手法に取り組み始めたが、すでに培っていた墨製図作業も並行して研鑽し、より多くの作業量と種類に応えられる体制を構築していった。東京地図研究社のような地図調製会社の技術と体制の基盤は、「人作り」に他ならない。塚田社長が陸測時代から身に付けた製図技術とその背景にある哲学は、日々の業務の中で社員たちに受け継がれ、社内の戦力は着実に向上していった。さらに昭和40年代となると技術を身に着けた社員が巣立っていったり、結婚した女性社員が自宅で製図を行うようになったりと、東京地図研究社で技術を育まれた社外戦力も増大していった。また創業以来、協力してくれた陸測時代の仲間たちや製図経験者の輪も大きくなり、会社としての業容も作業量も拡がった。
2,500分1都市計画図の作成方式が航空測量に変わり、昭和50年代になると国土地理院で制定された「国土基本図図式」を規範として、測量法の規定を満足する公共測量作業規程が建設大臣官房技術調査室監修で統一された。やがて各市町村ではこの規程を使用することにより、都市計画図が公共測量として認定される精度で整備されるようになった。さらに昭和40年代後半から地方自治体の「道路台帳作成事業」が始まり、昭和53年、自治省財務局の「地方公布税算定法」通達により各市町村の「道路台帳図」の整備が本格化した。このように都市計画図や道路台帳図の作業量の増大に伴い、東京地図研究社の売上高は昭和46年に5,000万円を超え、さらに昭和50年には1億円を超える実績を残した。
墨製図手法の変遷と対応
Column② 縁あって
縁あってこの世に生を受け、縁あって色々な人との繋がりを持っている。「縁」とは不思議なものであり、味わい深いものである。
私が宮崎から上京したのが東京地図研究社がスタートした年と同じ昭和37年なら、何かと慌ただしかったその年の瀬に、「帰省しないのなら」と先輩からいただいた墨製図の仕事も、たまたま東京地図研究社の仕事だった。また、どのようなきっかけだったかは定かでないが、塚田会長が私に本(『竜馬がゆく』全5巻)を貸して下さり、それは上京して間もない私にとっては大変嬉しい出来事だったと記憶している。
航測会社に8年在職した後、昭和45年には東京地図研究社に入社することになる。当時は社員が寝食をともにする家族的な雰囲気の中、一人ひとりが目標を決めて技術を磨き、良い成果があげられるよう日夜頑張っていたことが思い出される。この頃当社は墨製図を主な業務としており、いわゆる「名人」たちが活躍していた。体力と技術が同時に必要な鉄道図を仕切っていた女子社員や、等高線を精絵する時道具を持った手に自分の目がついて行けないほど速かった人、原図を見て「何日間で描き上げます」と宣言してその通りに実現する精密機械のような人。みんな腕に覚えのある本当の名人たちで、会社がまるで武家時代の道場のように思えたことを覚えている。
人と人との繋がりは、もちろんそれぞれの意志があってのものだろう。しかし自分一人でどうにかできるかと言えば、そうではない。そこには何か人間の意志を超えた「縁」の力が働いているように思えてならない。(東京地図研究社40年史 K.N)
株式会社へ組織変更
Column③ 技術は向上心から
岩手から上京して東京地図研究社に入社した時は、当然の事ながら地図のことなど何も分からないまったくの素人だった。それから墨製図に取り組むことになったのだが、そうでなくとも高い技術を要する作業だったことから、初めの頃は使い走りの合間にレタリングの練習や、丸ペンとガラス棒でマイラーに直線やカーブを描く練習を繰り返す日々で、実際に作業を手伝わせてもらえたのは1年後のことだった。
最初は先輩に基本だけ教わるのだが、当時は技術は教わるものでなく盗むものという考え方が強かったこともあり、自分で何としてもマスターするのだという気持ちで頑張っていた。しかしそう簡単には褒めてはもらえなかったように記憶している。
初めて図面を1面丸ごとまかされたのはそれからまだずいぶん後だったと思うが、やはり嬉しかったことを覚えている。しかし一生懸命描きあげて先輩に検査してもらうと、「全く図になっていない、やり直しだ」と厳しく叱られ図面を突き返されてしまった。その時はショックだったが、自分の未熟さを痛感し、今度こそ何としても認めてもらおうとその悔しさをバネにさらに技術の修得に打ちこんだものだった。
今にして思うと、こうして先輩やお客様に育てて頂いてこそ今の自分があるのであって、本当に感謝している。現在では墨製図の仕事はほとんどがデジタルへと移行してしまった。しかし技術は変わっても良い仕事をしてお客様に可愛がって頂きたいという気持ちは今も変わっていない。今後も常に向上心持って進んでいきたいと思う。(東京地図研究社40年史 H.S)